1600年〜1800年

井伊直幸(なおひで)書状

江戸幕府の大老・井伊直幸の光明寺宛の書状。井伊直幸は彦根藩第13代藩主で、大老在任期間は1784年(天明4年)〜1787年(同7年)とされる。

1604年
(慶長9年)
江戸城を造営するため、寺領を元々の霞ヶ関の地より、現在の西ノ久保に移す。
1645年
(正保2年)
徳川三代将軍・家光が光明寺を訪問した折、祖父の家康が光明寺の梅を喜んだという故事にちなみ、山号を、真色山から「梅上山」に改めるよう命じる。
1772年
(明和9年)
明和の大火によって、本堂庫裏等が焼失する。このとき、境内へ避難してきた人々が数多く焼死する。当時の住職・証山(第24世)は焼死者を偲び、「焼死人の墓」を建立した。(神谷町光明寺境内に現存)
1792年
(寛政4年)
文人僧・雲室(第26世)、光明寺へ入寺する。
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