人は、生きて、老いて、死んでいく。ただそれだけの人生を、そのままでいいと、とらわれなく感謝してすべてをお任せすれば、人生はそれだけでは終わらない—
詩と対話で綴る仏教的生き方論『いまのあなたのままでいい』(石上智康・大平光代著)より、君津光明寺の石上智康住職による詩をご紹介いたします。

石上智康肖像

君津光明寺 石上智康住職

「いただいているこの命、気をつけて大切に生活し、自分の器量に応じたところで精いっぱいやれば、それでいいのだと思います。ジタバタしてもはじまらない。いや、ジタバタしている『そのままでいい』という覚りの真実に『お任せ』するしか、最後はありません」

いのちを 任す

健康には くれぐれも注意しなければならないが
みな ひとり 裸で死んでいく
家族の思いも とどかない
この世のものは 役立たず

この体も 医者も お金も
最後には あてにならない と気づいているほうがいい
たぶん 自分の心さえも

「死せんときは
かねて あてにしていた妻子も 財宝も
わが身には ひとつも 相添うこと
あるべからず」(蓮如上人)

その時が来てからでは もう遅いので
晴れの日も 雨や風の日も
寒さの時も 暑い時も 健やかな日も病む時も
どこにいようとも どのような身なりであろうとも
一日に一度は 世俗の生活を止めて 心をしずめ
み佛に
真実の世界に
縁起 空 無常なる 障りのない 無量の寿(いのち)に
手を合わせ 頭(こうべ)をたれる

手術台の上
不安がよぎる
ジタバタしても はじまらない
それでも 不安がよぎる

「このままのお任せ それしかない」と聞かせていただき
安心する
臨終のその時に至るまで 執われの ただ中にあって
安心などできずに ジタバタしている そのままの姿でいい
「我にまかせよ そのまま摂めとる 心配するな」と 聞かせていただき
安心する

おのずから 頭が下がり
NAMO(なあーも)

いのちの 帰するところ
仰せの通り
いのちを 任す
はからいの心 なく
真実の信心

「私たちは 自然の流れの前に
ひざまずく 以外に
なすすべは ない」(福岡伸一)

「自然」と書いて「じねん」と読む
「おのずから しからしむ」(親鸞聖人)という
この世の 実相

「私の思いで 心臓をうごかし
私が計算して 呼吸をしていたら
寄る 寝る暇も ない
みな おのずから しからしむるはたらき」(林寺脩)

自ずからしからしむ はたらきに
したがい 任す

任せられなくても
いやだ いやだと いくら抵抗してみても
そうなる時には そのようになる
お任せするしかない
と 覚悟する

そのように 気づかされ
いのちを 任す
何事にも 気をつけて 生きているが
その時は いま
はからいの心 なく
真実の信心

「臨終まつことなし・・・
信心の定まるとき 往生また定まるなり」(親鸞聖人)

「これからさきの ひぐらしは
幸か不幸か 知らねども
どちらになっても よろしいと
たしかな覚悟が 出来ました」(釜瀬春鳳)

人事を尽くして 天命を待つのではない
縁起 空 自然(じねん)なる 障りのない 無量の寿(いのち)に 安んじ
精いっぱい 人事を尽くす
結果が悪くても 心配はいらない

なごりおしく思えども
この世の縁が つきる時
自他のかまえや ある無しの
世俗の分別苦(せめく)から 解き放たれて
執われもなく 何もなく
おのずからなる み手のうち

どこまでも 障りなく
広大無辺

「今から 約五十億年もすると
ヘリウムが 太陽の中心部分に 大量にたまり
太陽は 膨れ始め
その半径が 大きくなって
地球も のみ込まれてしまう」(観山正見)

縁起 空 無常 自然
どこまでも 障りなく
ああ 広大無辺

いのちの 帰するところ
生きる 依るべ

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